ayya # 054 檜山ゆき(2)

江差

  江差はかつてニシン漁と北前船の基地として繁栄した町である。ニシンについては大正12年を最後に豊漁はなく、ニシンがダメなら追分でまちおこしだ、といってほんとに江差追分で名をあげてしまった。ニシンはとれなくなったというけれど、これは海一面が銀色になるほどの群来がなくなったということで、食卓でいただいたり、干物にする分には別にとれないというほどのこともないようである。実際札幌にいても近所のスーパーからニシンの消えた日はない。さて、明治や江戸時代にそんなバカほどとれたニシンをどうしたのかというと肥料なのである。木綿や藍にばけたわけである。ここらへんはペルーやチリのアンチョビーと事情が似ている。

  ごちそうなだけにどこか勿体ないはなしである。京阪神地域ではニシンといえば甘露煮でそばというイメージもあるがこのニシン甘露煮は札幌や小樽にはぜんぜんなくて、松前、江差あたりにはある。北前船と京阪神地域の強烈なつながりを意識してしまうところである。同様に昆布というのも京阪神地域には全く産出がなく、古代よりこちらから『輸出』したものらしい。現代、昆布料理を最も食し、最もバリエーションの広い地域は沖縄であるけれど、やはり産出はなくようするに北海道の昆布が近畿地方を経由して沖縄まで運ばれたわけである。ところで産地の北海道にはこれといった昆布料理はなく、せいぜいダシをとってそのあとは捨てられてしまうケースが多いらしい。勿体ないはなしである。

  さて江差には中村家、横山家といった往時の商家跡が残っていてその風貌を残している。海岸に面した街道に向ってその正面をむけていて、奥へはきわめて長いつくりとなって浜まで伸びている。これは浜側から直接に物産を出納できるようになってたということである。図でみるかぎり直接船をつけるというよりは浜辺になっていたようであるが、満潮時には艀が直接つけられたかもしれない。この手のつくりは山陰あたりの漁家にはちょくちょく見たような記憶もあるが格段の規模の大きさである。 いまでは浜は埋め立てられて国道になってしまい、漁船や輸送船のかわりにトラックやバスが行き来している。これほどの大商家にもかかわらず、卯建(うだつ)をあげていないのはどうもヘンな気がする。これら商家は近江商人あがりであるというから、ますます卯建くらいあげてもよさそうなものである。

  卯建というのは屋根の両脇に小さい柱、壁をつくり小さな屋根をのせたりするアレで、防火の効果があるという。しかしそれ以上に格式のあるところを示すものでもあり、一種ステータスシンボルでもある。日本の独特の建築様式かというとそうでもなく、上海や蘇州あたりにもあるのだそうである。が、しかし北海道に来てからというものまるでお目にかかっていない。わたしはもう一生卯建をあげることはないだろうが、なに山の手の豪邸とてあがってなかったりするのだ気にするほどのことはない。そのくせ、神戸あたりの貧乏長家にしっかりあがっていたりもしたが。けれど震災でいちじるしく減ってしまったに違いない。
(写真)中村家のすがた (写真)中村家のすがた2

開陽丸

  江差鴎島あたりにはサルベージされた開陽丸がいまは水上博物館となってその雄姿を見せている。この開陽丸は幕末1861年に江戸幕府が最新鋭戦艦をアメリカに発注しようとしたけれど折悪しく南北戦争となったのでオランダに発注、1863年起工、1865年進水となり、クルップ社の大砲を搭載1866年完成というものである。世界的にみてもスクリュー、帆のバランスもよくまさに最新鋭鑑だったという。1853年のペリー艦隊は蒸気船であったために太平洋は越えられないかったことを思えば、蒸気機関搭載の帆船という選択の意義も理解される。

  最新鋭戦艦は1866年12月にオランダを出航、ブラジルのリオデジャネイロを経由して喜望峰を回り、大航海の末1867年4月30日横浜に到着した。10月14日(新暦11月9日)の大政奉還のおよそ半年前である。この後榎本武揚率いる旧幕府軍の主力鑑となったわけだが、これといった戦果をあげることもなく江差で座礁、沈没した。18門のクルップ砲はその猛威の犠牲者を出すこともなく海底に眠ることとなった。

  ところで艦首には葵の御紋が銅板の打物で飾られるとになっており、その為幕府からはサンプルの葵の御紋まで添えて発注されていた。だが、オランダの職人さんたちには葵の紋が理解できなかったらしく戻ってきた開陽丸艦首には三つ巴のハートマークがついていたそうである。艦内に件のトリプルハートが展示されていた。結構可愛らしいものである。
(図)葵の御紋

  昭和50年から63年にかけて大規模に遺物引き揚げがおこなれわて復元され、開陽丸青少年センターとして展示されている。かつての最新鋭戦艦もいまとなっては実に優美な帆船の姿である。がどういうわけか船の周囲ではウグイが群れをなしており、あまつさえ船内の売店ではエサまで売っている始末である。

追分会館

  ニシンの群来がなくなり、しかたがない追分でまちおこしだということで本当に江差追分を全国に広めてしまった江差である。そんなわけで全国の追分と江差追分の名人の記録、資料で博物館ひとつをデッチあげてしまっているのであった。江差追分にはなんと全国大会などというものまで開催されているのだそうである。

  この日はその何年度だかのチャンピオンによる実演があり、追分会館ホールで観賞させていただいた。曲目は江差追分全曲とソーラン節、北海盆唄で、客は15、6人といったところである。が、さすがプロである。300円の博物館の通常入場料でたまたまその時間にいあわせただけの、お世辞にもノリのよくない、やる気なさそうな客に手拍子を打たせ、なんだかよくわからないうちに盛り上げてしまった。 ハァーー、エンヤーコラヤット、ドッコイジャンジャンコラヤット。である。

馬場川の水門

  瀬棚町三本杉岩のあたりは馬場川の河口である。この河口にはやたら立派な水門が聳えたっており、異様な風景となっている。これは1993年の北海道南西沖地震では津波がここにも押し寄せ、川を遡って大きな被害を出したのが発端なのだそうである。そんなわけで水門は平時の水量制御ではなく、津波から村民を守るべくひたすらいつくるかわからない地震を待っているのであった。肝腎のとき当局者が覚えていてかつ動作すればよいのだが。
(写真)豪華水門のすがた

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2002/8/31