ayya # 077 ストレスと王侯貴族と時間泥棒団と

  現代社会がストレスの多い社会である、というセリフは聞きあきるほどに聞く台詞である。昔のひとは昔のひとなりにせねばならないことがあり、思いの叶わぬこともありそれなりにストレスはあったろうに現代人ばかりがイライラするというのも解せぬはなしではある。

  週休二日制はなんやかんやでそれなりに普及し、一家に二台の車を持つ家もあり、一家に複数の電話機やテレビがあり、冷蔵庫に洗濯機も標準装備。医療サービスは普及し、遠方との連絡も瞬時に済み、各種娯楽、憂さばらしも一大産業と化して、手軽に手にはいるというのにである。「貧乏はイヤだ。豊かになりたい」という明治以来の願いは叶ったといえる。テンプラでも牛鍋でもハモでもアワビでもその気になれば毎日でも喰うことができ、毎月服装を新調することさえ夢ではない。まさに誰も彼もが王侯貴族である。

  そのゼイタクの極みをつくす日本人やアメリカ人がストレスに悩んでいるというのもあらためて考えるに奇妙なはなしである。こうなると現在の絶えざる競争社会のプレッシャーが…、というはなしになるのだが、ほんとうに絶えず競争しているだろうか。実際のところ、まあこんなもんでお茶濁しというケースは少ないだろうか。

  別役実の『電信柱のある宇宙』によれば、精神が疲れるのと比例して肉体が疲れた場合、寝てしまえばいいわけであるが、肉体はピンピンしているのに精神ばかりが疲労した場合そのアンバランスでいらいらするのだそうである。もちろん、別役は定量的な実験・観察をしたわけではなくて雑感としてそういっただけなので充分な根拠があるというわけではない。

  しかし、それがほんとうであれば、車をつくり、機械をつくり、肉体を酷使する仕事から逃れたまさにそのことがストレス溢れる社会を作ったことことになるわけで皮肉なはなしである。そのストレスのせいで病気になり、死にいたる、あるいは自殺にいたるのだとすると、「何やってんだか」といわざるを得ない。

  とはいうものの肉体労働に従事するひとがストレスがないかといえば、どうもそれは違うようである。どのみち時間泥棒団(『モモ』)に時間を奪われた現代人は万事相手に急がされ、相手を急かさずにはいられないにちがいない。いろんなものがなんぼが速くなっても速いと思うのは最初だけである。

  ところでこんどは耳学問というよりはまた聞きであるが、いまどきの子供は未曾有のストレスに苦しんでいるのだそうである。身の回りに面白そうなゲームや美味しそうなおやつや楽しそうな場所や欲しいものがいやというほどあるのに、金が足りないとか、同時に二つはできないとか、太るとイヤだとか諸般の事情で我慢せざるを得ないのだそうである。

  じつにゼイタク極まるストレスであるが、じつは人間はこの種の贅沢な悩みには弱いのかもしれない。たとえば、必要な栄養素が不足する場合それが欲しくなり、過剰な場合には欲しくなくなる、という機構をわれわれはもっているけれど、砂糖であるとか塩分であるとか自然にはあまり手にはいらなかったものについてはこれが機能せず摂食過多になる。また、飢餓に備え余分のエネルギーは皮下脂肪として蓄える機構があるけれど、貯め過ぎて成人病のおそれがあってもその場合に排出する機能は不足がちである。

  厳しい条件を生き抜くための機構は各種もちあわせているが贅沢を抑制する機構はいまひとつたりないようにみえる。だから自然条件がこれを抑制しない場合、自分では制御できないか、できても大きなストレスが加わるというわけである。この手の王侯貴族の悩みに人間はもっとも弱くできているのだろうか。

  今日のまとめ。人間的とは貧乏くささとみつけたり。

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2003/8/2