ayya # 067 日本史クイズ第三弾 天下泰平篇

さて日本史クイズIIIは天下泰平である。江戸時代といえば時代劇でも最もおなじみの時代である。やっぱり平和ボケくらいがちょうどよいと思う今日此頃である。
例によって、受験生の人はまちがっても受験勉強に使えるとは思わないでほしい。
あくまでもお遊び。テレビ歴史ドラマとかそういうの好きな人には向いてます。

姉妹篇もよろしく。


問題 1

関ケ原の合戦に勝利した徳川家康は1603年2月征夷大将軍となって徳川幕府を開くが、その最初の法令は同年3月の郷村法令である。さてこの法令に定められていた内容として正しものは次のどれか。
a) 天領および私領の百姓の直訴の禁止。   
b) 武士が百姓を裁判なしに殺すことの禁止。   
c) 百姓の居住地の制限。   
d) 領主を告発して逃散することの禁止。   


問題 2

関ケ原の合戦後徳川家康は豊臣秀吉の朝鮮侵略のあとしまつをし、対明、対朝鮮の国交回復をはかる。一方、朝鮮側も再度の侵略を防ぎ、誘拐された人々を回収すべく国交回復の意志をもっていた。しかし、当時、先に国書を送ることにはその国に対する臣従を意味するため、双方とも第一歩をなかなか踏み出せずにいた。さてこの膠着状態をこえて朝鮮通信使の往来に漕ぎつけた契機はなんだろうか。
a)徳川家康が対馬の仲介で譲歩して国書を出すことにした。   
b)李氏朝鮮が譲歩して使節を派遣してきた。   
c) 薩摩経由の依頼で琉球王朝が両者をとりもつ形式をとった。   
d) 対馬の宗氏が双方に偽造国書を出し、その返書も偽造した。   


問題 3

寛永12年(1635年)10月、南蛮起請があらわれる。これは(1)自分は何年から何年までキリシタンであったが、何年のキリシタン改めで転宗し、現在は何宗であるか、(2)キリシタンになったことを後悔しており、二度を立ち返ることはないし、他人に勧めることもなく、伴天連が懺悔・告解をせよといっても立ち返ることはない、もし立ち返った場合は以下のような罰を蒙るべし、という起請文である。さてこの罰文であるがどんな神・仏・支配者に誓うようになっているか。
a)キリシタンの神   
b)日本の神または仏   
c)江戸の徳川将軍   
d)京都の天皇   


問題 4

1631年から朱印状をもつ朱印船にかわって老中奉書を携えた奉書船が交易に出ることになるが1635年にはついに日本人の海外渡航が禁止されることになる。いわゆる鎖国のステップであるが、いったいどういうわけで朱印状から老中奉書にかえ、それが海外渡航の禁止につながるのであろうか。
a) オランダ、ポルトガルと戦わずにすませるため。   
b) 幕府内部で海外交易の位置付けが軽視されるようになったため。   
c) 交易に伴なう宣教師の侵入を防ぐため。   
d) 大砲、鉄砲などの武器を輸入する必要が無くなったため。   

受験生のかたへの注意
大学受験では朱印状のほかに老中奉書必要になったってコトになっているので受験するときはそのように答えてください。


問題 5

1639年いわゆる「がれうた御仕置」で幕府がポルトガル船の来航をが禁止した。が、翌年貿易再開を求めてマカオからポルトガル船が来航。このときの幕府の対応はどうしただろうか。
a) 上陸を許さず、追い返した。   
b) 全員を処刑した。   
c) 中国人だけは助け、他は処刑した。   
d) 中国人と黒人はマカオに送還し、他は処刑した。   


問題 6

江戸幕府の家臣も一部高給官僚ともなれば、領地を貰ってその封土から収益をあげる封建領主さまであるが、たいていは天領からあがる収入をお禄として貰うサラリーマンである。ではこのお禄であるが、いったいどれぐらいの頻度で支給されたか。
a) 年俸制、年一度の支給。年貢米の徴収集計のおわった年末ごろ。   
b) 毎月の月給と年二度または三度、冬と夏、または冬と夏と春の一時金。   
c) 春夏秋冬の各季節ごとで、年四回。   
d) いわゆる五十日(ごとび)ごと。つまり毎月5日、10日、15日、20日、25日、30日。   


問題 7

寛永の飢饉で三都をはじめ全国に多くの飢人を出してしまった江戸幕府は軍役奉仕などに農民を使役したことに一因を認め、将軍の上洛を廃止、大名の改易・普請などを極端に減らした。それと同時に食糧増産にとりくむことになる。さて、以下の食糧増産策のうち施行されなかったのはどれであろうか。
a) 本田畠への煙草の作付・栽培の禁止   
b) 水田をつぶして木綿・菜種を栽培することの禁止   
c) うどん、そば、まんじゅう、そうめん、豆腐、南蛮菓子の売買禁止   
d) 幕領での商売用の酒造の全面禁止   


問題 8

江戸幕府は在地領主であった武士を城下に集住させ、400万石に及ぶ天領を70人(1673年)から42人(1730年)程度の代官とそれぞれ数人づつの手代に管理させたため、実質的な年貢事務などの文書行政を各村の名主・庄屋に委任することになった。このため、名主・庄屋は実質的に行政機関となって惣百姓との利害が対立するようになり、村方騒動がおきるようになる。この農民どうしの対立を仲裁するため幕府のとった次にあげる手続きのうちウソが一つある。どれか。
a) 各自の年貢高を庄屋と小百姓全員が立ち合いで算出し、各自の分を確認のうえそれぞれ判をして代官へ提出する。   
b) 郷中の諸役・公儀の諸役の入用については「諸役入用帳」などの帳簿を作成し、一年ごとに庄屋と小百姓がたちあって確認し、連判して手代に提出する。   
c) 年貢米を幕府の御蔵へ運び、引き渡すときは代官手代と百姓が立ち合い、記録し、御蔵の納帳と引き合わせて確認する。   
d) 確認、連判した以上、いっさいの異議申立ては認めない。   


問題 9

1644年、(寛永21)近江国中野村に領主である伊達藩から最初の農政法令が出た。本文九箇条は村落事務公開令、庄屋給の規定であるが、最後にその法令の公開方法が指定してあった。その方法とはつぎのいずれか。
a) 村々に高札をたてる。   
b) 代官の手代が各村を巡回して、寄り合いを開いて沙汰する。   
c) 代官屋敷に各村の庄屋衆を集めて申し渡し、庄屋が村に持ち帰って村人に申し渡す。   
d) 代官屋敷に各村の庄屋衆を集めて申し渡し、その際庄屋は承認の連判状をつくり、法令の村ごとの写しを庄屋が村に持ち帰って村人に申し渡し、村人はその遵守誓約状を連判で作成する。   


問題 10

1624(寛永元)年信濃国高井郡の幕領壁田村では肝煎(庄屋)作左衛門が村民に対し検地帳をみせないという事件がおこった。これは庄屋作左衛門が百姓一人に一〜二石ずつ帳より年貢を割増するという不正のためであった。不審に思った百姓新左衛門は直接奉行所に調べにいったがその後の展開は。
a) 代官の手代が事情を聞きとり調べをおこなった。その結果不正が発覚したため以降検地帳どおりの年貢割り当てとなった。   
b) 新左衛門が帳簿を借りて書き抜きをつくり、不正が発覚したので、作左衛門は肝煎を辞めさせられ、代わって新左衛門が新しく肝煎になった。   
c) 代官じきじきの裁判となり、作左衛門の不正が発覚。作左衛門は不届き至極につき打ち首となったが、新左衛門もそれとひきかえに処分された。   
d) 代官から江戸に知らせが送付され、江戸に奉行所において、裁定が下され不正に石分が増やされていた百姓はその分の土地を作左衛門から貰うこととなった。   

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2003/1/9