ayya # 052 愛の歌を歌おう。

あられふる
きしまがだけを
さかしみと
くさとりかねて
いもがてをとる

杵島曲(きしまぶり)というやつで、大意は『杵島ヶ岳は険しいものだから、躓いて転びそうになって草を掴もうとしたら、掴みそこねてアノ娘の手を掴んじゃったよ。』くらいか。万葉集の第三巻にある、「霰降り吉志美が岳をさがしみと草取りかなわ妹が手を取る」の異文である。

この杵島ヶ岳というのは常陸の筑波山、摂津の歌垣山とならぶ日本三大歌垣山として有名で、現地には歌垣公園などがあるということである。

歌垣(うたがき・かがい)というのは山に若年の男女が集って、娘組と若衆組がそれぞれ歌を歌いあって適当な相手をみつけ愛しあうというもので、まあ、集団見合いとも伝統的プロポーズ大作戦ともいえるものである。でまあ、歌の力で結ばれた男女はそのまま自然のなりゆきに身をまかせるわけで、ここらへんがわが国の文化が性的に開放的ないしは放縦といわれるゆえんである。西洋から来た宣教師たちには乱交とうつったに違いないが、それで授かった子供はそれはそれで神の子として、ないしは神様に授かった人の子として普通に成長しているわけだからゴチャゴチャいわれる筋合はない。

ところでこの歌垣だが、わが国固有というわけではなくて、中国の貴州や雲南にもあり、東アジア南方系の文化としてそれなりに普遍性があるらしい。また、おおらかな太古の時代の風習とばかりはいえなくて、たとえば対馬などでは明治のおわりごろまで続いていたようである。

対馬には島内に六つの霊験あらたかな観音さまがあり、六観音まいりといって、それをまわる風が中世の終り頃から盛んになった。男も女も群れになって巡拝した。佐護にも観音堂があって、巡拝者の群れが来て民家にとまった。すると村の若い者たちが宿へいって巡拝者たちと歌のかけあいをするのである。節のよさ文句のうまさで勝敗をあらそうが、最後にはいろいろのものをかけて争う。すると男は女にからだをかけさせる。女が男にからだをかけさせることは少なかったというが、とにかくそこまでいく。鈴木老人はそうした女たちと歌合戦をしてまけたことはなかった。そして巡拝に来たこれというような美しい女のほとんどと契りを結んだという。前夜の老人が声がよくてよいことをしたといわれたのはこのことであった。明治の終り頃まで、とにかく、対馬にの北端には歌垣が現実に残っていた。巡拝者たちのとまる家のまえの庭に火をたいて巡拝者と村の青年たちが、夜のふけるのを忘れて歌いあい、また、また踊りあったのである。

そのときには嫁や娘の区別はなかった。ただ男と女の区別があった。歌はただ歌うだけでなく、身振り手ぶりがともない、相手との掛けあいもあった。
宮本常一[忘れられた日本人]

ここで少しく注目したいのは、鈴木老人は歌作りが巧みだとはいわれずに「声がよい」といういわれかたをしているところである。たぶん形式的には短歌形式だけではなくて長歌やその他さまざまの形式で歌われたのであろうが、節回しや声の良さが重要なのである。現代のわれわれは短歌を福島泰樹の短歌絶叫コンサートか、皇室歌会初の儀でもなければ出版された本や新聞や、あるいは教科書、参考書で見ることになるわけで、せいぜいが朗読か、おそらくたいていの場合黙読となってしまう。しかし、あくまで歌は歌うものである。そのことばにメロディーとリズムとトーンとがあいまって訴えかけるわけである。鈴木青年の声とことばと旋律そして歌い踊る姿こそが彼女たちを感動せしめ、ついつい負けてしまいたい気分にさせたのであろう。

ところで皇室の歌会初の儀であるが、メインヴォーカルの高らかな朗誦にコーラス団が地底の底から沁み出すがごときレスポンスで応え、ちょっと禍禍しい雰囲気である。さすが古代に由来する儀式。そのくせ、燕尾服にドレスでテーブルにチェアである。明治期になんでもかんでも欧米風をとりいれるのがハヤったいきおいでこうなったのだろうと思われるが、ますます禍禍しさ炸裂といったところである。けれど、八百万の神々におうかがいをたて、清濁を併呑してしまう皇室にあってはなんでもありというのも、それはそれで、さもありなんというかんじがする。

肉声と旋律のパワーにはなしを戻すと、こうなると宮中歌合なんかの歌人というのは、気のきいた歌を作れるのみならず、かっこよく歌えなければならなかったはずで、いい声もしてなければならなかったに違いない。その歌いっぷりはもちろん残ってはいないのだろうけれどちょっと聞いてみたい六歌仙の歌声である。イタコに頼もうかしら。

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2002/7/23