ayya # 072 ロンドンのブルマー

  1851年万国博覧会で賑わっていたロンドンに、アメリカから数人の珍しい客が訪れた。アメリカにおける禁酒運動とフェミニズム運動の指導者として知られたアミーリア・ブルマー(1818-94)と、彼女の仲間たちである。一行は古い制度に縛られていたイギリスの女性たちの間で、意義ある啓蒙活動を展開できるはずであった。

  ところが彼女らは、少なくともロンドンのジャーナリズム界からは、風刺の対象としてしか注目されなかった。その頃に流行していたイギリスの婦人服――とりわけ次章でとりあげるクリノリンとはあまりにもかけ離れた、奇抜な服装をしていたからである。

『パンチ素描集――19世紀のロンドン』松村昌家(岩波文庫)

  というわけでわが国ではフェミニズム活動家として以上にブルマーズスタイルの服装で有名なブルマー夫人である。このブルマーズというのは東洋風のパンタロンと短いスカートからなるもので、すこしく前に女子用体操服に採用されていたやつとは少し雰囲気が違う。このスタイルはそれでも6ヶ月ばかりの間、ロンドンでちょっとした流行となったという。まさにその流行が『パンチ誌』の風刺のネタとなったわけである。女性解放運動というやつはどういうわけか、その本質部分以上に付随的な特徴をあげつらっては揶揄の対象とされるのであるが、当のブルマー夫人はとその仲間たちはそんなことはおかまいなしにこの服装に矜恃をもっていたようである。
[ブルマー姿のブルマーか] 「ブルマー姿のブルマーか」

  さらにおもしろいことにはブルマー主義者たち、アミーリア・ブルマー、ケイディ・スタントン、リビー・スミス、らが既婚女性であったにもかかわらず、これを揶揄する『パンチ誌』はきまって婚期を逃した、どう見ても美人とはいいがたい独身女性と結びつけてイラスト画をつくっている。ここらへんは70年代のウーマンリブの活動家が見目麗しい御婦人がたであったにもかかわらず、揶揄するほうは「男に相手にされずに欲求不満をつのらせたオバハン」というイメージを使用したのと対応していて面白い。活動家のほうとしては、見目麗しかろうとそうでなかろうと大きなお世話というものではあろう。
[ブルマースタイル大歓迎]「ブルマースタイル大歓迎」

  一方のクリノリンだが、これは鋼鉄やクジラの髭でつくった籠のようなペティコートに超ロングスカートを組合せるというもので、身動きが拘束されるばかりでなく往々にして火災の危険がともなっていたという。その非実用性にこそ豊かさのシンボルとしての機能があり、美のためにはいかなる不便も危険もものとはせぬその精神は鬼気迫るものがある。
[婦人を階下のディナー席へ案内する最も安全な方法] 「婦人を階下のディナー席へ案内する最も安全な方法」

  ところでこうした風俗をささえたビクトリア朝の男尊女卑の文化は世界に冠たるものであるが、歴史のほうはそうたいしてあるわけではない。極端な大土地所有制度のイギリスでは本当の意味での上流での貴族はせいぜい数百といったところで、ビクトリア朝の文化を担ったのはむしろ中流の新興産業ブルジョワジーである。ついさきごろまで家族経営でようやく中小の企業をもっていたか、せいぜい田舎の富農程度だったのが産業革命の波にうまくのって俄ジェントルマンをきどるようになった層である。ついこないだまではもちろん男尊女卑文化そのものはあったにせよ、婦人にもとめられる美徳は家政のきりまわしであったり、実用的な手芸能力、勤勉さ、ようするに実務能力であったのが、いきなりうってかわって優雅なレディとしての立ち居振舞いである。

  にわかジェントルマンたちはその出自の卑賤さを隠蔽しようとするかのごとく、貴族的な文化をほんものの貴族以上に演じようとする。レスペクタビリティすなわち、世間体こそがにわかジェントルマンの徳目なのである。ジェントルマンに恥じないような振舞い、教養、優雅な暮らしぶり。そんなわけで、19世紀のイギリスはメイドや執事といった召使いの未曾有の雇用ブームとなった。

  一方で、家庭がもはや生産の場でなくなり、仕事で疲れた男の憩いの場所というあたらしい機能をもちはじめるとともに"There's no place like a home"(家庭ほどすばらしいところはない。)などと家庭を称揚する傾向が出現し、女たちは「家庭の天使」と呼ばれ、育児と男性へのサービスがその徳目となる。

  こうした傾向が顕著になっていくのが1850年代の万博にはじまる好景気というわけであるが、まさにそのはじまりにはやくも婦人の側の異議申し立てがアメリカからきた婦人たちによってなされていたというわけである。社会を「生産(ないしは仕事)」と「再生産(ないしは余暇と育児)」とにわけ、女たちを専ら再生産の場としての「家庭」へ押しこめようとしたそのときにもうそのことへの抗議ははじまっていたのである。

  とはいえ、そのころ大多数を占めていた労働者階級の女たちはまさにその職場で搾取・収奪の憂き目にあっていたのである。女工さんも針子さんも二束三文の飢餓賃金でいいようにこきつかわれていたわけではある。

[前へ] [次へ]
[Home] [目次]

2003/3/30

micmic@satani.org