ayya # 064 積極的な善人

  一連の論争から、エントリュアは確信を深めた。----こいつは積極的な善人だ。

  エントリュアの見るところ、善人には二種類あった。消極的な善人と積極的な善人と。前者は感謝されるが、後者は自分以外のだれも満足させない。

  積極的な善人の特徴は、つつがなく暮らしている人の問題点を指摘する、という点にある。指摘されたほうは問題があるとは夢にも知らなかったので、うろたえてしまう。狼狽しているあいだに、積極的な善人は問題を解決することに手を貸す。手を貸されたほうが正気をとりもどしたころには、たいてい助けられる前よりも不幸になっている。

森岡浩之『星界の紋章 2』

  森岡浩之のスペオペ『星界の紋章』である。この作品はベストセラーだし、アニメ化もなり、関連書籍も各種でるなどはっきりいって大当たりなので作品そのものにいまさら言及することは何もない。まだ読んでなくて、小説とかそのての方面の好きなかたはお読みください。

  いまさらとはいうものの、そうそうと頷いてしまうのが「積極的な善人」である。呼ばれもしないのにやってきて善行の限りをつくして去ってゆく。月光仮面か黄金バットのような人々である。森羅万象に神を感じて暮らしている人のところにはるか何千キロのかなたから、やってきて、それは迷信であり、本当の神はただひとりだけであり、その神を信ずれば天国にいけるが信じなければ地獄に落ちると脅迫してくれたりする。こうして迷信を葬り、いまや民衆を惑わす悪魔となった元神々を退治してくださったりもする。ところがその巨木や森は実は水源を守っていたり、防砂、防風、魚群誘導の効果があったりするものだから、天罰テキメンえらい目にあったりするなんてのがパターンではある。しかし、どんなヒドイ目にあおうとも父なる神さえ信じていれば天国はそのひとのものなのである。

  ところで19世紀の列強の植民地支配は、さしあたり利権が目的として説明される。植民地にされた国々は独立後におよぶまで回復できない致命的打撃を受けているのは事実であるけれども、植民地支配をした国も軍事費用、統治費用、独立運動の圧殺の為の費用など出費が多く、差引すると赤字になったと聞いた。ただし、これは出典のあやしい耳学問である。

  ところが最初から利権目当てで侵略したのかというとそうでもないらしい。19世紀の欧米人は「自分たちには文明の遅れたアジア・アフリカ人に進んだ西欧文明を教えてやり、発展させてやるという高貴な使命がある」と考えていたらしい。いったいどれくらいがこれを単なるタテマエとみなし、どれくらいが本気でそう思っていたかは明らかではない。同時に現地のほうにも、これの手伝いをした人々がいる。彼らは欧米留学などを通じて、欧米の先進文物にふれ、感動し、祖国ないし故郷もこれに追いつかせようと粉骨砕身して努力、欧米の文明をとりいれるべく奔走する。ただし、貿易には輸出品が必要だから故郷の農産物や鉱物を飢餓をも顧みず増産し、その開発にあたって、機械など先進文物を輸入することになる。この際、商品作物なり、輸出用鉱物なりの開発には当の欧米から技術と資本をもった人々が植民してくる。かれらの活動はえてして、伝統的生活をつづける人々と衝突するわけだが、こうして事件がおこると本国から邦人保護という名目で軍事力が行使されることになる。この軍隊はどういうわけかよそさまの土地でさんざん暴れたあげく、その費用を被害者に支払えという。この賠償金が払えなければないで、払えば払ったでまた暴れまわり…。というのがまあ、植民地化の代表的なパターンではある。

  こうして、植民地の農産物、鉱物供給地としての従属的発展と本国の工業発展とが進行したわけだが、その際植民地の生産構造がかわってしまい、商品作物・原料の買い手でかつ工業製品の供給者としての本国または先進国が不可欠な状態になってしまう。そもそも、先進国との貿易の不均衡のため貧困状態にはいったというのに、本国からの輸入なしには経済が崩壊する状態になっているのである。輸入をつづけるため、たとえ飢えを出してでも商品作物をつくらざるえないのである。もっともミクロ的にいって、大農園の主人にしてみれば、輸出用の作物をつくれば、それなりに売れて金もうけになるというのに、どうして金もなく対価も払えない貧民のための食物を生産しなければならないのか、うちは慈善事業をやってるわけじゃない、というはなしにしかならないが。

  ちょっと気になるのが近頃日本企業などが中国東北部などで日本向けの野菜を生産、これのために日本の農家がピンチというはなしである。日本の農家が安い中国野菜に対抗できずにピンチというのはそれでいいとして、とうの中国の畠はそもそも荒地だったわけがない。もともと現地か都市部かの中国の人が食べるための農産物をつくっていたのではあるまいか。農園主としては中国人に売るよりも日本に輸出したほうがそれは儲かるだろうが、現地では農産物が値上がりしてるんじゃないだろうか。カネの効率はさておくとして、エネルギーの効率からいうと現地の農産物は基本的に現地の人間が食べるほうが経済的なんだが。中国の農産物が日本で消費され、当の日本の農産物は生産されなくなるとすると、これは地球全体としては食料の減産ということになる。1979年のスーザンジョージ、"How the other half dies?" 邦題『なぜ世界の半分が飢えるのか』では世界に飢えた国は山ほどあるが、食料の生産が国民の生活に必要な分を満たさないわけでなく、ただそれが、貧民の口には入らず先進国にいくだけだった。だが、その後20年。人口は爆発的に増加、食料生産は減少しているがいまではどうなのだろうか。

  それはさておき、進んだ宗教であるキリスト教を世界に布教してまわり、進んだ科学技術を普及してまわり、進んだ経済体制である資本主義あるいは社会主義を普及してまわり、進んだ思想である西洋的人権思想を普及してまわり、進んだ価値観である欧米型の価値観を普及させてまわる欧米人というのは実に積極的な善人であるように思われる。 大活躍の甲斐あって、これまでになく貧富の差は拡大して、飢えた人間が増加してはいる。

  とはいうものの、そもそも『欧米人』などとひとくくりにするほうがまちがいではあるのだ。こういうのを乱暴な一般化というに違いない。どうもスペオペなど読むと気分が壮大になっていけません。たった数行で数千年がたち、たった一行で何百光年も移動してしまうものだから。

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2002/12/10