ayya # 38 同文明の衝突

「聖書では、この地上のことは、神の影響下にあるものと悪魔に影響されているものとの二つで構成されているという見方をします。神の意向は、世界の調和(peace 一般には平和と訳されるが、本来の意味は構成員に調和があること)にあります。悪魔はこれに対抗する存在で、分派・分裂をもたらすものとなっています。戦争は、分裂があるから生じるわけです。明確にせよ、漠然とにせよ、この枠組みの世界観が西洋人にはあります」(鹿島春平太『聖書の論理が世界を動かす』、新潮社、1994年、21ページ)。「もし地域に分裂をもたらそうとする方向にばかり動く集団は悪魔の影響下にあるものと認識されます。これに対してまず、当事者が目をさまして、方向転換するように交渉・説得します。まずこれが根気よく、根づよくおこなわれます。だが、この交渉は、相手の姿勢を変えるためのもので、自分が変わって歩み寄る交渉ではない。この点を見逃してはいけません。不幸にして相手が変わらないと確認できたら、叩くしかない……これを前提の交渉です。だから、変わらぬ時は、決然と宣戦布告し粉砕・破壊します。我々はイラク戦争でそれを目のあたりにみせられました。攻撃に躊躇というものがない。途中のひるみがない。(22ページ傍点は岩田)

『ユーゴスラビア 多民族戦争の情報像』岩田昌征

  いきなり引用の引用である。この本そのものはボスニア・ヘルツェゴビナ戦争で、セルビア(東方正教)、クロアチア(カトリック)、ムスリム(イスラム)の三つ巴の争いで西洋のジャーナリズムがクロアチア一辺倒の立場をとり、ミロシェビッチ大統領をヒトラーに喩えるなどしてセルビア側の事情や立場を考えようとしないばかりか、取材すらしない。また泥沼の戦争をしかけたのがクロアチアの側であることも、それを裏で糸を引いてユーゴ連邦を解体に追い込もうとしたヴァチカンなどのやったこともそしらぬ顔で、最初からセルビアを殺人鬼呼ばわりでそれを補強する事実ばかりを探し求めて報道する、そういう西欧ジャーナリズムを告発している本である。でもまだまえがきしか読んでない。

  この手の片方に一辺倒の報道というのは1997年のMRTAによるペルー日本大使館人 質事件などが記憶に新しい。あのときはフジモリ大統領が95年以来憲法を停止し ていることも、反政府と見なされた人は弁護人なしの覆面法廷で覆面を被った裁 判官によって秘密のうちに監獄におくられていることも、女性囚人に対する恒常 的なレイプも、監獄が極端な高地に造られ栄養失調と寒さのため囚人がつぎつぎ に「病死」していることも、こうしたMRTA側の告発も、ほぼ同内容のアムネスティ インタナショナルによるペルー政府非難も、報道されることはなかった。甚しき はラ・レプブリカ紙からの引用で、「テロの45%がセンデロ・ルミノソによるも のであり、1%がMRTAによるものである。ペルー国民はこうしたテロを支持しては いない」という報道だった。元記事ではこの上にペルー政府によるテロ54%があ げてあり、主に政府・軍による誘拐事件を非難していたのに肝心の部分だけを削っ て報道していたのである。ただこのときはオグラ教授が現地情報を翻訳し てくれたのでわたしのような田舎住まいにもこうした事情がわかった。そも そもMRTA自身が告発のための決起であって、彼等自身がウェブサイトを立ちあげ ていたということによるわけだが。それでも徹底無視をきめこむ日本の報道陣に はすこし立腹もし、この年以来新聞というものを購読していない。

  しかし、今回ほうと思ったのは聖書の民の正義と悪の対決という発想である。その発想はたしかに旧訳聖書には露骨で、黙示録(啓示)にもぷんぷんしている。奇しくもというか予想どおりというかブッシュ大統領も「これは善と悪の対決である」といっていておよそ自分から歩み寄る気はない。それどころか「アフガニスタンの一般市民を解放するために」慈悲の爆弾の雨を降らせてさしあげるようである。これだからクリスチャンの人は全く…、と思っているとムスリムとて聖書の民ではあるのだった。イスラムはセム的一神教(ユダヤ・キリスト・イスラムのヤハウェを信じる宗教)のなかでは例外的に他宗派にたいし寛容なのが特徴ではあるが、これとて歴史的にいっても仏像破壊とかアウラングゼーブ帝とか不寛容の例も全くないではないのだ。まして原理主義となってしまえばどうしようもない。

  イスラムと原理主義というのはもっとも遠い関係にありそうではあるけれど、19世紀以来イスラム諸国家が落ちめになってから、ぽつぽつ登場している。最近ではかなりメジャーな存在にさえなってしまった感がある。不当にヒドい目にあわされれば、極端にはしる人もでてくるということだろうか。

  というわけで、聖書文明というのが自己の絶対化によって衝突せずにはいられない文明だということになるのだろうか。たしかに神と悪魔、善と悪、正義と邪悪の二元論でものごとを発想されてはたまらない。そういう人々の政体として代表民主政治というのは最悪にハタ迷惑な存在であるまいか。なんせハタ迷惑な正義を皆で共有して圧倒的支持のもとそれを他国におしつけずにはいられないのだから。

  われわれは極東文明圏にあって、こんなハタ迷惑な正義感を共有しなくてほんとうによかったと胸をなでおろそうとしたら、われら日本人というのは明治以来欧米的価値観を導入するのに余念がないのだった。

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2001/10/14