ayya #2  終らない会議

  さて私は老人からいろいろ話をきいている間に、この村には古くから伝えられている帳箱があり、その中に区有文書が入っていることを知った。そこでそれを見せてくれないかとたのんでみると、自分の一存ではいかぬという。帳箱には鍵がかかっており、その鍵は区長が保管しているが、総代立ち会いでなければあけられないという。それでは二人に立ち会いの上で見せていただけないかとたのむと老人は人をやって寄りあいの席から二人を呼んで来た。事情をはなすと開けて見せる位ならよかろうと、あけてくれた。その夜は宿で徹夜でその主要なものをうつしたが、実は旅の疲れがひどいので能率はあがらない。翌朝になって、「この古文書をしばらく拝借ねがえまいか」と老人の家へいってたのむと、老人は息子にきいてみねばという。きけば今日も寄りあいのつづきがおこなわれていて息子はその席に出ているとのことである。そしてまた人をやって呼んで来てくれた。すると息子はそういう問題は寄りあいにかけて皆の意見をきかなければいけないから、借用したい分だけ会場へもっていって皆の意見をきいてくるといって古文書をもって出かけていった。しかし昼になってもかえって来ない。午後三時をすぎてもかえって来ない。「いったい何の協議をしているのでしょう」ときくと、「いろいろとりきめる事がありまして…」という。その日のうちに三里ほど北の佐護まで行きたいと思っていた私はいささかジリジリして来て、寄りあいの場へいってみることにした。老人もついていってくれる事になった。いってみると会場の中には板間に二十人ほどすわっており、外の樹の下に三人五人とかたまってうずくまったまま話しあっている。雑談をしているように見えたがそうではない。事情をきいてみると、村でとりきめをおこなう場合には、みんなの納得がいくまで何日でもはなしあう。はじめには一同があつまって区長からの話をきくと、それぞれの地域組でいろいろに話しあって区長のところへその結論をもっていく。もし折り合いがつかねばまた自分のグループへもどってはなしあう。用事のある者は家へかえることもある。ただ区長・総代はきき役・まとめ役としてそこにいなければならない。とにかくこうして二日も協議がつづけられている。この人たちにとっては夜もなく昼もない。ゆうべも暁方近くまではなしあっていたそうであるが、眠たくなり、いうことがなくなればかえってもいいのである。ところで私の借りたい古文書についての話しあいも朝話題に出されたそうであるが、私のいったときまだ結論は出ていなかった。朝から午後三時まで古文書の話をしていたのではない。ほかの話もしていたのであるが、そのうち古文書についての話も何人かによって、会場で話題にのぼった。私はそのときそこにいたのでないから、後から概要だけきいた話は、「九学会連合の対馬の調査に来た先生が、伊奈の事をしらべるためにやって来て、伊奈の古い事を知るには古い証文類が是非とも必要だというだが、貸していいものだろうかどうだろうか」と区長からきり出すと、「いままで貸し出したことは一度もないし、 村の大事な証拠書類だからみんなでよく話しあおう」ということになって、話題は他の協議事項にうつった。そのうち昔のことをよく知っている老人が「昔この村一番の旧家であり身分も高い給人(郷士)の家の主人が死んで、その子のまだ幼いのが後をついだ。するとその親戚にあたる老人が来て、旧家に伝わる御判物を見せてくれといって持っていった。そしてどのように返してくれとたのんでも老人はかえさず、やがて自分の家を村一番の旧家のようにしてしまった」という話をした。それについて、それと関連あるような話がみんなの間にひとわたりせられてそのまま話題は他にうつった。しばらくしてからまた、古文書の話になり、「村の帳箱の中に古い書き付けがはいっているという話はきいていたが、われわれは中身を見たのは今が初めであり、この書き付けがあるのでよいことをしたという話もきかない。そういうものを他人に見せて役に立つものなら見せてはどうだろう」というものがあった。するとまたひとしきり、家にしまってあるものを見る眼のある人に見せたらたいへんよいことがあったといういろいろの世間話がつづいてまた別の話になった。

  そういうところへ私はでかけていった。区長がいままでの経過をかいつまんでひととおりはなしてくれて、なるほどそういう調子なら容易に結論はでないだろう。とにかくみんなが思い思いの事をいってみたあと、会場の中にいた老人の一人が「見ればこの人はわるい人でもなさそうだし、話をきめようではないか」とかなり大きい声でいうと外ではなしていた人たちも窓のところへ寄って来て、みんな私の顔を見た。私が古文書の中にかかれていることについて説明し、昔はクジラがとれると若い女たちが美しい着物を着、お化粧して見にいくので、そういうことをしてはいけないと、とめた書きつけがあるはずなどとはなすと、またそれについて、クジラをとったころの話がしばらくつづいた。いかにものんびりしているように見えるが、それでいて話は次第に展開して来る。一時間あまりもはなしあっていると、私を案内してくれた老人が「どうであろう、せっかくだから貸してあげては…」と一同にはかった。「あんたが、そういわれるなら、もう誰にも異存はなかろう」と一人が答え、区長が「それでは私が責任をおいますから」といい、私がその場で借用書をかくと、区長はそれをよみあげて「これでようございますか」といった「はァそれで結構でございます」と座の中から声があると、区長は区長のまえの板敷の上に朝からおかれたままになっている古文書を手にとって私に渡してくれた。私はそれをうけとってお礼をいって外に出たが、案内の老人はそのままあとにのこった。協議はそれからいつまでつづいたことであろう。

  私にはこの寄りあいの情景が眼の底にしみついた。この寄りあい方式は近頃はじまったものではない。村の申しあわせ記録の古いものは二百年近いまえのものもある。それはのこっているものだけれどもそれ以前からも寄りあいはあったはずである。ただちがうところは、昔は腹がへったら家へたべにかえるというのでなく、家から誰かが弁当をもってきたものだそうで、それをたべて話をつづけ、夜になって話がきれないとその場へ寝る物もあり、おきて話して夜を明かす物あり、結論がでるまでそれがつづいたそうである。といっても三日でたいていのむずかしい話もかたがついたという。気の長い話だが、とにかく無理はしなかった。みんなが納得のいくまではなしあった。だから結論が出ると、それはキチンと守られねばならなかった。話といっても理屈をいうのではない。一つの事柄について自分の知っているかぎりの関係ある事例をあげていくのである。話に花がさくというのはこういうことであろう。

  このような協議の形式はひとり伊奈の村ばかりでなく、それから十日ばかり後おとずれた対馬の東岸の千尋藻でも、------------------(後略)

       [岩波書店:宮本常一著「忘れられた日本人」]


  micmicはこういう会議にでたことがある。ただし「理屈」はありありだったのでタイヘンではあった。寄りあいは妙案をだすためではなく、構成員各々が「いうべきことはぜんぶ云った。決定には自分も参加した」と納得するためにある。そのためには相応の時間は必要で、コンピュータの援用やインターネット活用で資料・情報を増やしたとて、それで会議の効率化などできはせぬ。それでも、資料は山積みされねばならぬ。やるべきことは尽したと感じるために。かくて、紙切れはあたりに散らばり、ハードディスクはすぐ一杯になる。そして私は夢の世界。

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